裏・今宵堂 vol.3



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 京都のやきものは、ひと言では表現し切れない多様さを誇っています。
 桃山時代に生まれた、京都最古といわれる軟質施釉陶器「押小路焼」。利休の命により作られた茶の湯のためのやきもの「楽焼」。そして、現代も京焼の代名詞とされる名陶工・野々村仁清より始まる「色絵付磁器」。しかし、そうした歴史に名を残した窯の影で、ひっそりと静かな光を放っていた「やきもの」が、京都の黒谷に存在しました。

 二〇〇八年、世界革命研究の権威、アラン・ド・バルザック博士は、論文「フランス革命と日本における幕末の相違と真相」の研究課程において、偶然にも、ある「やきもの」を発見しました。その名は「極楽焼」。その発祥は、実に珍しく、世界的にも例がないと断言できるものでした。
 黒谷金戒光明寺は、京都守護職・松平容保の本陣であり、『新撰組』はここで市中取締の命を受け誕生しました。都大路を縦横無尽に走り廻り、壬生の屯所と黒谷本陣との間を毎日のように行き交っていました。勇姿の志士と謳われる彼ら。しかし常に生と死の狭間で戦う彼らの心中は、穏やかではなかったことでしょう。
 そこで、新撰組初代局長・芹沢鴨は、やきものの心得があった隊員・奥田平次郎に茶碗を焼くよう命じました。茶碗には、唱えると極楽へ行ける「南無阿弥陀仏」の経を書かせ、隊員ひとりにつき、一碗の茶碗を与えました。経の書かれたその茶碗は、生死の狭間で生きる志士たちの心の拠り所となったのです。それが、新撰組のためにだけ存在した、「極楽焼」であります。
 「極楽焼」は、骨董品としての価値、技術の妙はさほど優れたものではありません。しかし、彗星のように輝き、消えていった「新撰組」という志士たちの姿をこのやきものから想像していただければ幸いです。

 今回の展示にあたり、貴重な所蔵品の出陳をご快諾くださいましたバルザック博士、並びに京都歴史文化財保存協会を始めとするご協力いただきました皆様に、心より厚くお礼申し上げます。

平成二十年 十二月二十七日 今宵堂




※ 本作品はフィクションであり、史実とは異なります。



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銘 『芹沢』

為 芹沢鴨

 新撰組初代筆頭局長であった芹沢は、奥田平次郎に命じて、まず自分のために一碗を焼かせました。側面に、「唱えると極楽浄土に行ける」という阿弥陀経を紋様のようにあしらったことから、その茶碗は通称「経碗」と呼ばれ、「極楽焼」と名付けられました。

 芹沢の為に焼かれたこの茶碗は、新撰組のシンボルであった「誠」の文字が茶溜まりに力強く書かれています。しかし、やや小ぶりで侘びたその姿は、初代局長でありながら、後に近藤らに粛正されることとなる、その悲運な生涯を予感させるものであります。




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銘 『井蛙(いかわず)』

為 近藤勇

 文久三年、近藤は、芹沢、土方らと共に京都において「壬生浪士組」を結成。文久の政変の後に、正式に「新撰組」の名を拝命し、市中警護を任されました。

 細長い筒型の碗形は、近藤の名言「井の中の蛙、大海を知らず。されど空の高さを知る。」から由来されたと考えられます。後に芹沢を暗殺し、新撰組を手中に収めたそのしたたかさは、己を蛙に見立てながらも、高みを目指した彼の志が、この茶碗に表れているようにも思えます。また、極楽焼経碗の高台部分には、新撰組の「誠」の文字が印として捺されています。




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銘 『沖田』

為 沖田総司

新撰組一番隊組長であった沖田は、無類の天才剣士であり、剣豪ひしめく新撰組の中でも、一、二を争うほどの多くの人を斬ったといわれています。

 薄い口作り、端正な碗成りは、美少年であったといわれるその容姿や華麗な太刀筋から、平次郎が沖田の佇まいを写し込んだと思われます。




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銘 不明

為 不明

 一九七四年、壬生寺の敷地内において、極楽焼とみられる三つの茶碗の陶片が発掘されました。平次郎は、様々な茶碗を作りましたが、この三碗は、極楽焼の中では珍しく、白化粧(白泥をかけた装飾)が施されています。三碗が同時に壬生寺から発掘されたことから推測するに、文久四年の「池田屋事件」の際に絶命した、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門の為の弔い茶碗ではないかと考えられています。

 この「池田屋事件」を境に、新撰組の活動は活発化し、その名を市中に轟かせるようになりました。




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銘 『一文字』

為 原田左之助

 伊予松山藩出身で、新撰組十番隊の組長であった原田は、種田流の槍の名手として知られていました。

 短気な人物であったようで、ある武士と喧嘩して「腹を切る作法も知らぬ下司め」と言われ、腹を切って見せ、隊内で「死に損ね左之助」とあだ名されました。この話をもとに、平次郎は、左之助の茶碗の胴に「一」の文字をあしらい、左之助の豪傑ぶりを表わしたといわれています。




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銘 『鬼神丸』

為 斎藤 一

 新撰組三番隊組長の斎藤は、「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣。」と謳われる、新撰組最強の剣士のひとりでありました。

 平次郎が、斎藤のための茶碗を作っている最中に、そこに現れた斎藤が、いきなり刀を抜き、茶碗の縁を一刀両断した後、「このくらいの高さがいい。」と呟いたといわれています。平次郎は、この茶碗を斬った刀「池田鬼神丸国重」から茶碗の銘を拝借したということです。




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銘 『伊東』

為 伊東甲子太郎

 元治元年に新撰組に入隊した伊東甲子太郎は、弁舌が巧みで頭脳明晰であったため、新撰組の参謀兼文学師範に抜擢されました。
 しかし、土方らにその並成らぬ策士ぶりの資質が警戒され、終には、近藤の妾宅での酒宴の帰路、新撰組隊士によって暗殺されました(油小路事件)。その際に、この茶碗を懐に忍ばせていたため、血の跡が付いたと思われます。

 伊東が殺された慶応三年。新撰組内での派閥争いの激化とともに幕末の世も大きな過渡期を迎え、この年の秋、大政奉還となります。




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銘 『魁(さきがけ)』

為 島田魁

 新撰組の古株の隊士である島田は、身長約一八〇センチ、体重約一五〇キロという、新撰組一の巨漢でありました。大政奉還後の鳥羽伏見の戦いでは、持ち前の怪力で活躍したといわれています。

 島田は、その巨漢に似合わぬ、大の甘党でありました。平次郎が島田の体に合わせて作った、この大振りの茶碗で、砂糖たっぷりの汁粉を啜っていたといわれています。




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銘 『土方』

為 土方歳三

 新撰組において「鬼の副長」と恐れられた土方は、鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争で、負傷した近藤勇に代わり、新撰組を率いました。新政府軍との戦いで、敗戦を重ねて北上し、蝦夷地にまで渡ります。
 明治二年、土方は、新政府軍の箱館総攻撃の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬し、絶命しました。絶命時に彼が持っていた弾痕の残る茶碗の破片は、新撰組の終焉の様を表わしているようです。

 このように「極楽焼」は、日本が新しい時代へと生まれ変わろうとする幕末に生まれ、新撰組と共に消えていった、短い運命のやきものでありました。




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銘 『冠雪』

為 奥田平次郎

 土方とともに戊辰戦争を戦い抜いた奥田平次郎は、明治二年に新撰組が降伏した際に、新政府軍に捕縛されます。その後、名古屋藩に預けられ、謹慎が解かれると故郷の駿河に戻り、陶工として作陶生活を送ったと言われています。

 この茶碗は、平次郎の駿河での晩年の作であります。
 駿河の国から望む富士の雪を模した肌合い、「極楽焼」の証であった高台の「誠」の印は、平次郎の銘に変わり、丸みを帯びた柔わらかなその碗成りからは、平次郎の平穏な生活を伺うことができます。



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